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港のひと
港のひと・002・創刊2号
2002年5月20日発行
010◆タローさんとサブロー 田村和子
 「横浜のオカザキさんがくれたから十一月十一日はサブの記念日」これは俵万智のサラダ記念日を真似して太郎さんが口ずさんだものである。サブローとは猫のことだ。サブに申し訳ないのだが、私はこいつが我が家に来た時全く可愛いとは思わなかったのだ。私も子供の頃からたくさんの猫たちを飼ってきたが、動物と人間にも妙に相性があるということをこの時はっきり気がついた。サブは我が家に来たとたんに風呂桶のせまい床下にもぐり込んでしまい、頑なとして一日中出て来なかった。私は大量に水を流し込むという荒療法でおびき出そうと考えたのに、太郎さんは実に根気よくやさしくあたたかく声をかけ続けて、ほとんど一日余りかけて自発的にとび出して来るのに成功した。出て来た瞬間サブは太郎さんの胸にすがりつき、そのまま彼の膝にのり続けお風呂に入る時もふたの上にのり、寝る頃には足にまとわりついて太郎さんがベッドに入ると同時にふところの中へもぐり込み、太郎さんもサブもとても可愛らしかった。間もなく一匹ではかわいそうと他家からサブのために全く同じ時期に産まれたタラとゴローがやって来た。サブは今問題になってる引きこもりではないかと少々心配だったが、とんでもない思いちがいで大そう活発な少年猫だった。サブは大いに喜び家中三匹でかけまわりじゃれあってそれはなんとも楽しい情景であった。今思うとサブに人の好き嫌いのはげしい神経質な猫で、ほんとにやさしい人間を嗅ぎ分ける嗅覚の鋭い奴だったと思える。猫は家につくというが人にもしっかりつくということを私はこのことで知った。
 太郎さんが我が家に最晩年住むようになるまでには約八年にも及びすさまじい嵐が吹き荒れた。今から二十五年も昔のことだから詳細は忘れたが、田村隆一と太郎さんに共訳の仕事が舞い込んだ。太郎さんと田村は府立三商時代の同級生で詩の仲間としてその交際は終生にも及んだ。田村は生涯に亘って膨大な翻訳を生きるためにせざるを得なかったが、そのほとんどは下訳者に依存していた。それが太郎さんとの共訳であれば田村は安心してまかせていられるわけだ。その原稿の受け渡しの役が私であった。田村はほとんど酒場にいて我が家の夕食はしばしば空振りが多かったから月に何回かの原稿のやりとりの時、お茶から夕食を御馳走になるなんてこともあった。小さな誤解から小さなさざ波になり、やがてそのうねりが大波そして嵐に変化していったのだ。あの頃は太郎さんのお宅、そして我が家も大海原に弄ばれる小さなボートだったのではないだろうか。当時島尾敏雄の『死の棘』壇一雄の『火宅の人』などが出版され、ああこれよりはマシかなどとたかをくくっているうちに、太郎さんは家を出られた。そして私は次第に精神を病んでいった。病んでいる自分をその頃客観視は不可能だったが、おそらく家事もまともに出来ないうっとうしい私だったろうと思う。田村は徐々に我が家へ帰って来なくなった。
 鎌倉市内にある精神病院に自殺のおそれありということで私は入院したが、田村の見舞いは一度もなかった。太郎さんは横浜から私の好物を手みやげに週に一回は必ず来てくれた。よほど狂暴でもない限りあの種の病院は個室に入れない。私は太郎さんが来てくれるのを心待ちにしていた。同室のちょっとずつおかしい人たちのふる舞いをこまかく描写して報告する私に太郎さんは安心したという。正確にとても愉快に話をするのでこの人は重くない必ず治ると確信した、とずっとあとから太郎さんに聞かされた。その見舞いの帰り道に、私を狂わせたのは自分だと涙がとめどなく流れたという。重篤な病気で六十九歳で逝った太郎さんに手を合わせてお詫びしたいが、私は私自身を制御出来ずに自分で自分をこわしたのだと今でははっきりそう考えているのだ。
 昭和六十三年の十月頃Aさん宅に住居を移した田村から手紙が来た。すべてから解放され独身者になりたいという。精神科の先生は私のような気質の人間は離婚すると案外病気から逃げられるかも知れないといった。私は書類が送られたその日のうちに市役所にとどけた。
 私は人生を損得で考えるのは好きではないが、田村がAさんとすぐ入籍して娘さんまで養女にしたのをやがて知りちょっと損したなと思った。しかしそれでせいせいして太郎さんを我が家に迎えてあげる方が急がれたのだ。彼は絶対に助からない病いにかかっていたのだから。
 太郎さんは我が家へ来てとても明るくいつも元気そうだった。私のことを“ワタイさん”と呼んだ。私がふざけて自身のことを“ワタイ”といったのがきっかけだ。東京の下町育ちの太郎さんに“ワタイ”というひびきは心地良かったはずだ。昭和のはじめ下町の小さい女の子は自分のことを“ワタイ”というのを私は聞いていたし、それを子供心に可愛いと感じていた。
 平成二年秋第四十回読売文学賞の本賞は硯だったが、副賞の百万の中から音楽好きの私のためにCDコンポをプレゼントしてくれた。
 私の料理は天才だとほめてもらい、時には太郎さん自身も腕をふるってくれた。
 一ヵ月に一回東京の虎ノ門病院へ定期検診に行く時、寝坊の私にネコの画入りの置手紙があった。
 平成四年十月七日午後病院から緊急入院になったので売店でいろいろ買って入院するからゆっくり来てねという電話があった。亡くなる三日前からお父さん子だったアブ(ことサブ)が全く餌を食べなくなった。静かに目をつぶっている太郎さんに「お父さんアブタンが全然ごはん食べなくなったのヨ、早く帰って来てやってよ」と声をかけると、太郎さんの目からはらはらと涙があふれた。
 その三日後人工透析中に太郎さんは逝った。そして翌年の寒い日お父さんが大好きだった“アブタン”も死んだ。
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