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港のひと
港のひと・002・創刊2号
2002年5月20日発行
013◆赤トラ太郎-江崎 満
 我が家には現在八匹の猫がいる。猫が特別好きなわけではなく、飼おうと思って飼ったのではない。仕方なくといっては猫に失礼かもしれないが、それが正直なところである。
 十年も前のことだったか、一匹の雌の野良猫が縁側の隅に忍び込んで子供を産んだのがことの始まりだった。子猫が少し大きくなったら捨てに行こうと思っていたのだが、やはり子猫は可愛いのであり多少は情も移った。それに、この母猫が実にりりしく賢かった。頻繁に狩りをするのである。ねずみや小鳥をとってきては子猫たちに与えるのである。その光景は野生の母ライオンさながらであって、なるべく我々には世話はかけないといっているようであった。我々夫婦はいつしかこの母猫に尊敬の念を抱くようになり、ついに彼女は市民権を得たのであった。三毛猫だったので「ミケ」という名を付けた。十年後の今、いうまでもなく八匹の猫たちは彼女の子孫である。八匹の中に三匹の赤トラがいる。一番の兄貴で図体もでかいやつの名は「太郎」、二番目は「小太郎」、一番小さくまだ小猫の赤トラは「小小太郎」である。我が家で生まれた赤トラにはとにもかくにも「太郎」という名前を付けることがいつの間にか習慣のようになって定着している。
 詩人北村太郎が亡くなってから十年が経つ。友人から危篤の報を聞き東京の病院に駆けつけた時、すでに氏の意識はなかったが手を握ると微かに握り返して下さったのが最後となった。再生不良性貧血だった。亡くなられた日の帰り、横浜ベイブリッジから夕日の中に富士山がくっきりと浮かび上っているのが見えたことを今でも鮮やかに憶えている。
 我々が横浜で暮らしていた頃、氏には大変お世話になった。その頃、我輩は漫画の原作が仕事だったが、仕事に詰まるとちょくちょく氏のアパートにお邪魔した。氏のアパートは山手山元町の丘の上にあり、我輩の住む柏葉とは歩いて二十分もかからなかった。六畳と小さな台所がついた狭いアパートだったが、昼時などにお邪魔すると、そこかしこ本が積んであり足の踏み場もない六畳に招き入れてくれ、「さあ、飯でも食うか」といつも麺類を作って出してくれるのである。氏はもともと浅草のそば屋さんの出で麺類には自信があったし作るのも上手だった。「打ち水のタイミングなんだよなあ」とかいいながら、さっと作るのである。特に夏の冷麦はあっという間に出来上がった。さっと出来上がり、どっと食べ、 ふうーと溜め息をつき、がくっとうなだれる。それで氏は冷麦のことを「うなだれ定食」といっておられた。
 我が家にもよく遊びに来られた。来られる時は大抵、我が女房殿に髪を切ってもらいたい時やジーパンを切って欲しかったりする時だった。氏はスーパーに売っている安物のジーパンと合成皮革の革靴を愛用されていて、夏になるとそのジーパンを膝の所で切って半パンにされるのであった。半パン姿で肩から掛けた買い物袋に大根を入れ、下町風情の残った山元町の商店街を飄々と歩いておられる氏の姿はよく憶えている。散髪やジーパン切りが終わると、赤ん坊だった子供たちを抱いてあやして下さったり、時にはハーモニカを吹いたり歌をうたって下さったりもした。
 勿論、色んな話も聞かせていただいた。氏は詩人であり文学者だが話といえば専ら自分の失敗談や友人達の話、日常の面白い出来事などで、それをあけすけにユーモアたっぷりに話して下さり我々を笑わせてくれるのだ。我輩にしてみれば詩人との付き合いというよりは市井の一人の自由なおじさんとの付き合いだった。氏の話の中で特に印象に残っているもののひとつに猫の話がある。氏は特に猫が好きで、猫の話となると手振り身振りでそれは面白いのであった。氏は詩人であると同時に猫の達人でもあった。いや、野良猫と付き合う達人であった。猫が好きだったが決して飼おうとはされなかった。野良猫と付き合うのである。氏のアパートがあった山手山元町の丘は下町ということもあり野良猫が沢山住んでいた。そやつらが風入れのため開けた窓から勝手気ままに氏の部屋に入ってくるのである。中には知らんぷりして氏のベッドにもぐりこんで寝ているやつもいたらしい。我輩が部屋にお邪魔している時も、さも自分の家であるかのような顔で窓辺でくつろいで寝ているやつや氏と話をしている最中そしらぬ顔でそばを歩いていくやつ、いろんなやつがいた。食事の食べ残しがあればやっておられたようだが、いつもではなかったようだ。猫も勝手気ままならば氏も勝手気ままに猫と付き合っておられた。ひょっこり気ままに現われる野良猫に声をかけてやる氏はあくまでも優しく、自身も遊んでおられた。それは人間と猫との対等で自由な絶妙な関係であって傍から見ていても理想的に思われた。まさに猫の達人であった。
 ある日、氏は遊びに来た文学仲間と碁を打っていた。その時窓辺に薄汚れた赤トラの雄猫が一匹寝ていていたらしい。 文学仲間のその人は猫を見て「なんと不細工な猫だな」と感想を漏らしたらしい。さて、碁も終わってその人が帰ろうと立ち上がったその時、じっと寝ていた赤トラ猫が蹶然と起き上がり脱兎のごとく走ってその人の足に飛びついたかと思うやかかとにガブリ噛みつき、そして走り去ったのだという。氏はその事件を微に入り細に入り身振り手振りで説明して下さり、興奮冷めやらぬ顔で「猫っていうやつはいつも知らん顔しているが、人間のいうことは何でもちゃんと分かっているんだ」と感想を漏らされた。
 氏から御自身の文学論や詩論などはあまり聞いたことはないが、猫論というのは度々聞かされた。氏の長い猫との付き合いと観察の中で生まれたエッセンスである。その中に、猫の性格というのは人間でいえば血液型のようにおおよそのところ毛色で分けることができるというのがある。赤トラの性格、きじトラの性格、三毛猫の性格というように毛色独特の性格があるというのである。なぜそうなのかは分からないがそうなのだと氏は自信をもっていわれるのである。その話は我輩の猫体験に照らし合わせても妙に説得力があった。無理やり理屈をくっつければ毛色も性格も遺伝子が決めるのであるから毛色の遺伝子と性格の遺伝子に何らかの関係があるのかもしれないなどと考えることもできそうだが、そんなこと考えても埒は明かない。
 とりわけ氏は赤トラの猫が好きだった。氏がいうには赤トラの猫の性格は「ふざけている」らしい。知ってのとおり猫というのは犬と違って人間との関係、意志疎通が薄くまったく自分勝手に行動する。よくいえば自立しているわけである。その自由さが気持ちいいのであるが、赤トラというのはそういった猫の規格を外れたところがあるというのが氏の考えであった。度外れてのんびりとしており、人間にハゲシク関係を求めてきたり、なんだか犬に近いところがあってまったくふざけたやつだというのである。また赤トラには所謂の美猫が少ない。身体に比べて顔が異様にでかく、それでいて目が小さくぶすっとしているのが多い。それも氏の好みに合うようであった。
 我輩が横浜から奥能登に移住したのは氏との知遇を得て五年後のことだった。僅か五年の付き合いだったが、人生を迷っていた我輩を励まして下さったり、沢山のアドバイスを頂いた。氏から多くのことを学んだが、それを一言でいうと「自由とは何か」についてであった。観念論ではない。実生活の上での自由である。氏は丘の上の狭い安アパートに暮らす自由な生活者であった。氏は三十歳も年下の我輩に大人としての尊大さを見せたことがなく、あくまでも対等なひとりの人間として接して下さった。その態度はまったくあけすけで、いいことも悪いことも自身のそのままをさらけ出して見せてくれるのであった。思想やドグマに囚われることなくそよ風のように自由だった。そして我輩はそんな氏の自由さに触れるにつけ、氏の自由の背景にいつもぼんやりと掴みきれないひとつのイメージが浮かんでくるのをどうしようもなかった。それを敢えて言葉にすれば「孤独と死」であろうか。
 そう考えるなら氏の自由の限りなくしなやかで清々しかったことが腑に落ちるのである。
 ミケが縁の隅で初めて子供を産み、オッパイを吸う五匹の子猫の中に赤トラの毛色を見つけた時、我々は躊躇することなくその子に「太郎」という名を付けた。いうまでもなく北村太郎の太郎である。現在我が家には三匹の太郎がいるし、
 これからもっと太郎は増えるかもしれない。しかし、我輩の心の中に北村太郎の清々しい自由が生き続けるかぎり赤トラの猫には「太郎」という名を付け続けるだろう。
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