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港のひと
港のひと・002・創刊2号
2002年5月20日発行
017◆おいしいお米できたよ-江崎遊子
 我が家には居間の真ん中に今も北村さんの写真が飾ってある。少々埃の被ったその写真を訪れた来客が「どなた?」と聞く。そんな時、いつも鼻高々に北村さんのことを自慢している。北村さんが友人であることで少しは私も知的に見えるかもしれないなんていう浅はかな期待があるのだろう。時々持ち上げられて写真の中の北村さんは迷惑だろうか。いい加減なことやっているね君、なんていいながら笑われそうだけど、そんないい加減さも多分許してくれるに違いない。
 私たちの粗雑な結婚生活が始まった時、怪しい友人たちの中に大きな存在感とともに北村さんがいた。うどんをゆでる時には打ち水を入れるんだよ君。ちょっとした言葉の端に「東京」を感じさせるものがあった。浅草のそば屋さんの息子だったと聞くし、麺類に関しては一家言持っていたと思う。うちの人はよく北村さんの住まいにお邪魔しては麺類をご馳走になっていたし、夏の花火大会の時には、二十や三十も年の離れている私たちを集めていつも冷やし中華を作ってご馳走して下さった。具は時に十一種類もあった。丁度、北村さんのアパートの窓から花火が見えて、タマヤー! だのミョウミョウ! だのとにかく賑やかに夏の夜が過ぎていった。
 北村さんには私たちのもう体験することのない日本人の暮らしのにおいのようなものを感じることがあった。もう失われてしまったのか、失われつつあるのか、そこのところはよく分からないけれど、小説でしか味わえないような日本の文化の香りといったら大袈裟だろうか。
 当時、我が家には重度の障害を持った長男と一年に満たない次男がいて、彼らをあやす時の北村さんが特に好きだった。両手の指を思いっきり広げて両耳のところへ持っていき、フィーリックスちゃん! お利口ネコちゃん! とおどけて見せると次男は泣くのをピタッと止めて、不思議そうな顔をして北村さんを見つめていた。子供の顔を両手に挟んで持ち上げ東京見物というのも得意だった。そのうちハーモニカ演奏も始まる。♪ちいいさな きいっさてんで ああったときのふたーりは おちゃとけーきをまえーにしーて ただだまっていたっけねー♪ 「小さな喫茶店」というのが北村さんの十八番だった。いつの間にかよく集まる仲間もできて一緒にご飯を作って食べた。
 そんな暮らしが何年続いただろう、突然、横浜から離れて能登半島の輪島に移住するという話が出てきた。多分私たちにとってはごく自然な流れだったと思う。私たち一家が友達に見送られ、関東地方から安房峠を越えて北陸の田舎に引っ越してきたのは十六年前の春のことだった。大都市横浜から一変して人口二百人あまりの過疎の村での慣れない稲作や子供との付き合いにわっせわっせと必死なものがあった。食糧を自給するというすっかり新しい暮らしにぼんやりと夢も広がっていった。私たちの家の周囲は雑木林で秋は紅葉だし、冬は雪に覆われて真っ白になるし、日々変わる新緑の移ろいもつぶさに見ることができて退屈する暇がなかった。そんな日々の暮らしのことを手紙にしたためて北村さんに送ったことがある。暫くして返信が届いた。丁度、親友の鮎川信夫さんが亡くなられた直後で何ともいえない深い欠落感のようなものが伝わってきた。私にとって予測もしなかった新しい感じの北村さんにその時出会ったような気がした。どーんと低く震えながらそういう手紙を私に書いてくれたことがどこかで妙に嬉しかった。
 いつだったかはっきり記憶してないが、あの時すでに再生不良性貧血を発病されていたと思う。横浜のアパートから北村さんが鎌倉に移られて間もなくのことだった。私たち一家がその鎌倉の家にお邪魔したことがある。山積みになった本にお日さまが当たり明るく風通しのよい家には何かしら新しいにおいがあった。窓から海も見えてこれからここで過ごされるのかと思うと他人事ながら嬉しいような気がした。どこから見ても文句の付けようのない日、そんな忘れられないような日がきっと生涯に何日かあると思う。私にとってその日はさらさらと身体中に瑞々しい風が吹いてとても心地よい一日だった。
 北村さんはお米にはこだわりがあって、確かコシヒカリを買って食べていたと思う。「ゆーこさん」と呼ぶので台所を覗いたら、茹で上がったばかりの小松菜のおひたしと真っ白いご飯が器に盛られてあった。「ぼくは朝ご飯はこれで充分なんだ」とおいしそうに食べていた。自分で野菜やお米や味噌を作るようになって私のおいしいもののイメージが随分変わってきていた。大事なのは素材と空気と水。しかも、料理の中心はご飯だと思っていて、ご飯がおいしければ食事の八割は成功といえる。そんな思いもあってこれだけで充分といえるシンプルさに妙に納得できるものがあった。輪島に引っ越してほぼ十六年になる。その間ずっとお米を作ってきて今年ももうすぐ稲の種蒔きをする。自分たちで作っているという思い入れもあって私たちの完全無農薬米は今では自慢できるとてもおいしいお米だと思っている。
 北村さんが不治の病におかされて自分の死とどう向き合っておられるのか思い巡らす余裕もなく相変わらず、わっせ、わっせと暮らしていた。北村さん危篤の報を受けたのはその年の十月の終わり頃だったと思う。取るものも取り敢えずすぐに東京に向かった。あの当時まだ安房トンネルができておらず旧道の険しい峠を越えねばならなかった。曲がりくねった道に酔いそうだった。一時、北村さんのことをすっかり忘れそうなくらい見事な紅葉で特に頂上付近のカラマツの透けるような黄色が目に沁みた。それまでどこかに突き上げるような緊張感があったのがホッとほぐれた瞬間だった。東京虎ノ門病院についた時、北村さんの意識はすでにないように思われた。うちの人が「えざきだよ、きたむらさんわかるか!」と大きな声で語りかけると顔が微かに動いたようだった。聞こえているかもしれないと思った。私は北村さんの手に触り思わず「きたむらさん、おいしいおこめができたよ」といってしまった。クスッと笑い声が漏れるような全くその場にそぐわない言葉だったと思う。おいしい山水で新米を炊いて、炊き立てご飯の塩にぎりに私が畑で作った小松菜のおひたし。北村さんはきっと、こりゃ、うまい、と褒めてくれるに違いなかった。
 今五十四歳の私だが、あと何回お米を作れるだろうか。田んぼ仕事ができることがありがたい。何よりご飯が食べられることがありがたい。雑木林の燃えるような紅葉を眺めながら我が家の縁台で北村さんと一緒にご飯、食べたかったなあ。
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